臼井霊気療法の発祥

 臼井先生については、伝説上の人と言うイメージで語り伝えられることが多く、郷里を離れてから霊気療法創始までの詳しい経緯は、今も完全には判明しておりません。 

​ アメリカを本拠地として、霊気療法の普及活動をスタートするにあたり、円滑な普及のための必要から、臼井先生の伝記や、霊気治療法の歴史、後継者などについて、多くの創作が加えられました。しかし、近年は、かなり真実があきらかになり、徐々に修正されてきています。

​ 臼井先生の真実については、菩提寺(西方寺)に建立された「臼井先生功徳之碑」の、碑文の内容がほぼ正確です。

 これは臼井先生が逝去された翌年、1927年(昭和2年)2月に、門下生約2000人余のうち心ある人たちが集まり、石碑を建立したもので、

碑文を現代語訳(意訳)したものを紹介しておきます。

 修養と練磨によって自ずと身についたものを「徳」といい、指導と救済の方法を広めて実践することを「功」という。功多く徳の大きい人こそ、初めて偉大な開祖ということができる。古来賢人や哲人、英才など、新たな学問を興したり、宗派を開いた人は皆そのような人であった。臼井先生も、またその1人ということができよう。

 先生は新しく「宇宙の霊気に基づいて心身を改善する方法」を始められた。四方から噂を聞いて治療を学びたい人や、治療を受けたいと願う人たちが、一斉に集まってきた。まことに盛んなことであった。 

 先生は通称を甕男(みかお)、号を暁帆(ぎょうはん)といい、岐阜県山県郡谷合村の出身で、千葉常胤(ちばつねたね=平安末期から鎌倉初期に活躍した武将)を祖先とする。父の実名は胤氏(たねうじ)で通称は宇左衛門、母は河合氏から嫁いでいる。先生は慶応元年8月15日に誕生。幼時から、苦学しながら努力して勉学に励み、その実力は友人たちを遥かに超えていた。

 成長の後、欧米に渡航し中国に遊学した。しかし、出世という点では実力通りにいかず、不運でしばしば生活に困窮したが少しも怯まず、ますます鍛錬に励んだ。

 ある日、鞍馬山に登って食を絶ち苦行を開始したが、21日目に至って突然、一大霊気を頭上に感じ、悟りが開けると同時に霊気療法を得た。これを自分の身体で試し、家族にも験したところ、即座に効果が現れた。先生は「この力を家族で独占するよりも、広く世の中の人に授けて喜びを共有する方がよい」と言われ、大正11年4月、東京青山原宿に住居を移され、臼井霊気療法学会を設立して霊気療法を公開伝授され、治療も行われた。遠近から集まって、指導や治療を求める人の列が戸外にあふれた。

​ 大正12年9月、関東大震災による火災が起こり、けが人や病人が至るところで苦しんでいた。先生はこれを深く憂慮され、毎日市中を回って癒された。これで救われた人の数はどれほどであったか、とても数えることはできない。この緊急事態に際し、苦しむ人々に愛の手を差し伸べられた先生の救済活動は、おおむねこのような状況であった。

 その後、道場が狭くなったため、14 年2月市外の中野に新築移転した。

 先生の名声はいよいよ高まり、全国各地から招聘(しょうへい)されることが多くなった。その求めに応じて呉に行き、広島へむかい、佐賀に入り、福山に至る。この旅先の宿で、はからずも疾患にかかり、享年62歳をもって逝去された。

 配偶者は鈴木氏から嫁いでおり、名前は貞子、一男一女がある。男の子を不二(ふじ)といい、臼井家を継いでいる。

 先生の生来の性格は温厚で慎み深く、うわべを飾らず、身体は大きくがっしりとして、常ににこやかに微笑を含んでいた。しかし、事に当たる時は明確な意思を持って、しかもよく忍耐し、極めて用意周到であった。非常に多才で、読書を好み、歴史や伝記、医学書、仏教やキリスト教典、心理学、神仙の術、呪術、易学、人相学にいたるまで、すべて熟知されていた。思うに、先生の学芸経歴が修養錬磨の基礎となり、修養錬磨が霊気療法開眼の鍵となったことは、だれが見ても明らかである。

顧みれば、霊気療法の主眼とするところは、単に病気を治療するだけでなく、天与の霊能によって心を正しくし身体を健康にして、人生の幸福を味わい楽しむところにある。ゆえに人に教えるにあたっては、まず明治天皇の遺訓を体得させ、朝夕五戒を唱えて心に念じさせている。

 五戒とは、1に今日怒るなかれ 2に憂うるなかれ 3に感謝せよ 4に業を励め 5に人に親切なれ。これは実に、修養のための大切な教訓であり、古来の聖賢が自らを戒めたものと同じである。先生はこれをもって招福の秘法、万病の霊薬とされ、教えの目的を明確に示されている。

 

 しかも指導方法は、出来る限りわかりやすいことを主眼とされ、少しも難解なところはない。静座合掌して朝夕念じ唱えるごとに、純粋かつ健全な心が養われ、それを日常生活に活用させるところに神髄がある。これが霊気療法の、だれにでも普及しやすい理由である。

 最近は世相の移り変わりが激しく、人々の思想の変動が少なくない。幸に、この霊気療法を普及させることができれば、世人の道徳心の乱れを救うために、少なからず助けとなるにちがいない。決して、長期疾患や持病悪癖を治療する利益だけではない。

​ 先生の教えを受けた門下生は、すでに二千余人に達する。そのうち、高弟で都下にいる者は道場に集まって遺業を 継ぎ、地方にある者もまた、それぞれ霊気療法の普及に努めている。先生は逝去されたが、霊気療法は永く世に伝え、広めなければならない。ああ、先生が自ら感得され、それを惜しげもなく人々に与えられたということは、なんという偉大なことであろうか。

 このたび、門下の諸士が集まって相談した結果、石碑を西方寺の墓域に建ててその功徳を明らかにし、後世に伝えることになったので、碑文を私に委嘱された。私は先生の偉大な功績に深く感服し、さらに諸士が師弟の縁を大切にする心に感じ入り、あえて辞退せずにその概略を記述した。これにより、後世の人が感嘆して仰ぎみることを忘れることのないよう、心から切望するものである。

昭和2年2月

       従三位勲三等文学博士      岡田 正之  撰

       海軍少将従四位勲三等功四級   牛田 従三郎 書