臼井霊気療法を生み、育て、広めた人たち

1. 臼井甕男先生のこと

 臼井霊気療法を創始された経緯については、「霊気療法のしおり」(臼井霊気療法学会発行)、「臼井先生功徳之碑」の碑文、その他の関連資料を参考にしながら、考察してみましょう。

 臼井先生は1865(慶應元)年8月15日、岐阜県山県郡谷合村(町村合併により2003年4月1日より岐阜県山県市谷合)で誕生。若くして郷里を離れ、欧米・中国に渡航して学びを深めました。職業も公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家の秘書、宗教の布教師、刑務所の教戒師などを体験し、幅広い人生経験を積み重ねました。

 やがて「人生の目的とは何か」を探求するようになり、長い探求の結果「人生の目的は安心立命を得ることである」という認識に到達しました。

 安心立命とは「人は自分の力で生きているのではなく、宇宙から使命・役割を与えられ生かされているという真実を知ること」「人生で何が起こっても、宇宙を信じて、淡々と自分の役割を果たすこと。精一杯努力したあとは、宇宙にすべてを委ねて、思い煩うことのない安らかな心を維持すること」、これが人生の目的だと認識したのです。

​ 「この認識に沿った生き方を実現したい」と禅の道に入り、安心立命の境地を求めて、京都の寺で約3年間座禅に励みましたが、求める境地は得られず、思い余って師の禅僧に「安心立命に達するには、どのようにすればよいか」をたずねると、「一度死んでみることだな」と答えました。

 ショックを受けた先生は、その意味を深く考えていましたが、「人生の目的である安心立命が得られないなら、このまま生きている意味がない。自分の人生ももうこれまで」と覚悟を決め、京都郊外の鞍馬山上で断食を開始しました。

 3週間目の深夜、脳天に落雷を受けたような衝撃が貫き、意識不明となりました。一夜が明けて、早朝の寒気で我にかえった先生は、今まで体験したことのない不思議な感覚の中にいました。寒さと空腹、極度の疲労を覚えながら、得も言えない爽やかな心境でした。このとき、周囲を含んだ強烈な宇宙霊気が体内霊気と共鳴して「私は宇宙だ、宇宙は私だ」という宇宙との一体感を達成され、求めていた境地が完成したのでした。

 山を下りる途中、木の根につまづいて足の爪がはがれ、うずくまって手を当てると即時に痛みが取れ、虫歯で苦しんでいた茶店の娘に手をかざすと瞬時に痛みと腫れがさり、帰宅して病床に伏していた夫人の肩に触れると即座に快癒するなど、不思議な体験が続き、癒しの力が与えられていることに気づきました。

 「人は幸福をもとめているが、病気や不幸で苦しんでいる人が多い。人は宇宙から使命・役割を与えられ、生かされている存在である。とすれば、宇宙が人の病気や不幸をのぞむ はずがない。

 人は宇宙から健康に幸福に創られているが、それに背を向けて生きている。人は小宇宙といわれ大宇宙と霊気で繋がっている。宇宙霊気は周囲に満ちているのだから、体内霊気との響き合いができればよい。数々の体験から、手当による癒しの力は、明らかに宇宙霊気と体内霊気の共鳴によって起こっている。また安心立命の境地も、宇宙霊気と体内霊気の究極の共鳴状態に他ならない。今、このような癒しの力を与えられたのは、誰でもできる手当療法を入り口として、安心立命への道を伝えるようにという、天からの啓示に違いない」。

 このように理解した臼井先生は、これを臼井霊気療法と名付け、「この療法を、縁ある人に伝えるところから始めよう」と、教え(教義五戒)と指導体系を作り、1922(大正11)年4月に東京で臼井霊気療法学会を設立しました。学会には海軍高官たちが多数入門し、牛田従三郎(海軍少将)は第2代会長、武富咸一(海軍少将)は第3代会長として臼井先生の後継者となり、和波豊一(海軍中将)は第5代会長として戦後の多難な時期を支えました。また、少し遅れて入門した林忠次郎(海軍大佐)は、霊気療法を世界に広める重要な役割を果たしました。

 関東大震災では、門弟たちとともに多数の人命を救いましたが、1925(大正14)年2月に本部を中野に新築移転した頃から、21名の師範が誕生して会員の指導を手伝うようになり、臼井先生は各地に出かけることが多くなりました。

 1926(大正15)年春、師範会において牛田従三郎氏を第2代会長に指名した後東京を発ち、呉、広島、佐賀を経て3月9日に福山の宿で急逝。数えで62歳(満60歳)でした。

 なお功徳の碑に、千葉常胤が祖先とあるのは誤りです。千葉常兼は、桓武平氏を祖先とする千葉家の3代目当主ですが、その長男・常重の子が常胤で千葉家を継いでおり、臼井とは無関係。常兼の三男・常安が佐倉臼井台を開発し、臼井城を築いて臼井姓を名乗ったのが始まりです。

​2.林 忠次郎先生のこと

 林先生は、臼井先生の門弟の中でも特筆すべき存在で、「日本発祥の霊気療法を、世界のレイキに発展させるきっかけを作った人」として知られています。1879(明治12)年に誕生し海軍兵学校を1902(明治35)年に卒業。予備役の海軍大佐で、現役時代は軍医だったと言われます。海軍兵学校から軍医への足跡は不明ですが、臼井先生が霊気療法の医学的効果の検証と、技術の改善を託されたことから、医学的知識が豊富であったことは間違いないでしょう。

 1925(大正14)年に神秘伝を受けて師範となりましたが、その数ヶ月後に臼井先生が死去されたため、臼井先生認定の最後の神秘伝者と言われます。当時は、神秘伝を与えられた人は学会本部で霊気療法の普及指導や霊気療法に従事するのが普通でしたが、臼井先生は林先生に「学会の活動に従事せず、霊気治療所を開設して、医学的見地から霊気療法の効果を高めるための研究を進め、その成果を学会にフィードバックする」と言う役割を与えました。具体的には「霊気治療によって多くの病人を癒すこと」と、「治療を通じて、霊気療法の効果を高める研究をすること」の2つでした。そこで林先生は、東京信濃町に林霊気研究会をつくって療法の研究を進め、同時に霊気治療所を併設しました。ここは学会に属さない独立施設でしたが、臼井先生の勧めによるもので、学会も全面的に援助してスタートしました。

 林先生は臼井先生の期待に応えるため、新しいスタイルを取り入れ、数々の試みを導入しています。学会では重病人以外は座って治療を受けていましたが、これをベッド方式に改め、マンツーマンの治療を複数のヒーラーによる治療方式に変更しました。治療所に8台のベッドを備え、1台につき2人の霊気療法家(奥伝授与者)が治療に当たりました。そのため、常時16人の療法家が待機し、非常に盛況だったと言います。治療時間は約1時間、空いている時は1人の患者に多数の療法家が同時に手を当て、最後に林先生が、仕上げとして1点(状況によっては3点)手を当てました。

 学会では頭部、腹部、脊椎を重視しましたが、林先生は東洋医学による経絡をはじめ、ツボ、チャクラなどのエネルギーセンターも重視しました。これらの研究成果が、新しい霊気療法指針の作成や、独自のハンドポジションの体系化に発展して行きました。霊気療法にクリスタルを取り入れ、ビー玉大の水晶玉の数珠を患者の胸の上において手当を行いました。このよう数々の試みの成果が、現在の西洋レイキに引き継がれ、誰にでもできるレイキ 療法として、世界に普及するシステムの基礎が完成しました。現在、世界で活用されている「基本12ポジション」やエネルギー伝授の方式(アチューメント)の原型が、ここに存在しているように思われます。

 臼井先生の死後、林先生は学会を離れ、林霊気研究会として独立しましたが、牛田会長との意見の相違が原因で、林先生に自由な研究をさせる方針が変更になったためと言われています。

 

 林先生は、独立後も臼井先生を深く尊敬し、常に「臼井甕男先生遺訓・五戒」という自筆の軸を掛けて治療や講習を行い、臼井先生の教えと、臼井霊気療法の名を伝え続けました。

 学会と同じく「初伝・奥伝・神秘伝」の3段階方式を採用し、認定証は林霊気研究会の名前で発行しますが、「心身改善臼井霊気療法」を伝授する形をとっています。独立したとき、別の名称を使用していたら、臼井先生や臼井霊気療法の名は世界に伝わっていなかったことになります。

 林先生の人脈から、芸術家や作家、実業家など、当時の上流階級に幅広い信奉者を集めたと伝えられています。林先生が神秘伝を与えたのは13名で、このうち女性は林先生の夫人・知恵さんと、ハワイ生まれの日系女性・高田はわよ先生の2名だけでした。林先生の没後は、知恵夫人が林霊気研究会の第2代会長に就任し、各地を訪問して講習を行いました。林夫妻には一男一女があり、どちらかに第3代の会長を継がせようとしましたが誰も継がず、知恵夫人の死去で林霊気研究会は消滅してしまいました。

 

 もうひとりの女性神秘伝者である高田はわよ先生は、ハワイの地に臼井霊気療法を根付かせ、彼女の養成した22名のレイキマスターたちが世界に向けて普及活動を開始し、成功させました。

 林先生は、高田先生の資質を見抜き、霊気療法のグローバル化を託されたと思われます。

 1938(昭和13)年2月21日にハワイで神秘伝を与え、ここに西洋で最初のレイキマスターが誕生しました。林先生は、その2年後の1940(昭和15)年5月11日死去。知恵夫人の話として「再び戦場へ赴くのを嫌い、自殺した」と伝えていますが、真相は不明です。

​ 林先生の享年は、当時の数え方で薄い戦士の死去ろ同じ62歳でした。

3. 高田はわよ先生のこと

 高田先生は、日本人を両親に持つ女性で、1900年にハワイで生まれ、世界最初のレイキマスターとなった人で、西洋レイキの祖と言われています。

 川村家から高田家へ嫁ぎましたが夫に先立たれ、小さい2人の娘を抱えていました。1935(昭和10)年に心臓、胃、肺、胆嚢、腫瘍などの病状が悪化し、医師から余命わずかと診断されて、両親の故郷である日本の土を踏みました。子供を親に預けて療養に専念するためと、万事の事態を想定して娘たちの将来を託すためでした。

 両親の元でしばらく平穏な日々を過ごしましたが、病状が極端に悪化し、少ない可能性に賭けて赤坂の前田病院で大手術を受けることになりました。手術台に上がり、今まさに手術が始まろうとする直前、「手術は必要ない、手術を受けてはいけない」と言う威厳に満ちた内なる声が3回聞こえ、彼女は手術台を下りました。看護婦たちは驚きましたが、手術以外の方法を選択したいという彼女の申し出は受け入れられ、林先生の霊気治療所を紹介されました。

​ それから毎日霊気を受けた結果、健康状態は目に見えて改善され、3ヶ月で症状が消え、8ヶ月後には完全に健康を回復しました。好奇心旺盛な彼女は、霊気療法を受けながら、並行して前田病院で状態をチェックしてもらい、体調がどのように変化しているかを確認していました。

 

 元気になった彼女は、林霊気研究会に入門して1年間、霊気療法を学びました。奥伝を受けた彼女は、出張治療のために林先生と一緒に出かけるようになり、ときには単独で依頼者の家を訪問して、霊気療法を行いました。こうして霊気療法を身につけた彼女は、1937(昭和12)年に、2人の娘たちとハワイに帰り、レイキ・クリニックを開きました。

 林先生は、彼女がレイキを学んで帰国した後、彼女をマスターとして育成するため何度もハワイへいき、同時に現地で講習会を開催したので、ハワイ在住の多くの日系人が霊気療法を学んだと伝えられています。

​ そして1938(昭和13)年2月21日、林先生は高田先生にレイキマスターを与え、その資格を法的に登記して特別の地位を保証しました。林先生は霊気マスターを与えた後も、何度かハワイを訪れています。このようなハワイでの指導実績の積み重ねが、日本の霊気療法を海外に伝える第一歩となったことは間違いなく、その遺志が晩年の高田先生に引き継がれました。

 やがて太平洋戦争が始まりました。高田先生はハワイの真珠湾攻撃が開戦のキッカケになったことや、現地の国民感情などから、日系人として多くの苦しみを体験しながら、次々と訪れてくる難病者を相手に、クリニックでレイキ治療を続けました。平和を取り戻したハワイの地で治療を続けているうちに、いつの間にか年月が経過し、彼女の年齢は林先生の享年を超えました。

 マスターになった後もレイキ・クリニックでの治療に専念していた高田先生は、林先生から託された使命を思い出したのかもしれません。75歳を過ぎてからレイキマスターの養成を始めたといわれます。30代半ばに「余命わずか」と宣告された高田先生は、1980(昭和55)年12月11日、80歳の天寿を全うしてこの世を去りました。

 ちなみに、高田先生が認定されたレイキマスターとして、次の22の名が伝えられています。

George Araki                     Dorothy Baba                               Ursula Baylow                  Rick Bockner

Patricia B. Ewing             Barbara Brown                             Fran Brown                        Phyllis L. Furumoto

Beth Gray                          John H. Gray                                  Iris Ishikuro                       Harry M. Kuboi

Ethel Lombardi                Barbara L. McCullough                                                            Marry A. McFedyen

Paul Mitchell                   Bethal Phaigh                                Shinobu Saito                  Virginia W. Samdahl

Wanja Twan                     Kay Yamashita                                Barbara W. Ray

​ 22名のマスターは「レイキ・アライアンス(フィリス・フルモトなど21名)と「ラディアンス・テクニーク(バーバラ・レイ)」の2つの団体に分かれて活動を始めました。世界に普及している西洋レイキ(臼井レイキ)は、フリーラインと呼ばれる系統不明のものを含めて、すべて<<臼井甕男→林忠次郎→高田はわよ→22名のマスター>>という流れの中にあると言われています。